それはいつもの通り、美樹さやかが仕事を終えて家に着いた時の事だった。
「お疲れ様」
と、家に着いた途端、家主に温かい言葉を掛けられたので、美樹さやかはきょとんと目を見開いた。
「へ?あ、う、うん」
ただいまと言いながら、さやかは窓辺のソファにくつろいでいる家主の元へひょこひょこと近づいた。艶のある黒髪、白磁のような肌、圧倒的な美貌――いつもの相方だ。キャミソール一枚でくつろいでいる姿は美しく、煽情的で、既に8年も共に過ごしているというのに、さやかはまだその姿を直視し続けるということはできないらしい。ほんの少しだけ頬を紅潮させながら窓に映った夜景へと視線を移す。
「お仕事どうだった?」
「うん…いつもの通りよ」
肩をすくめながら、相方の問いに答えると、さやかはやや怪訝そうな表情で振り向いた。眉を困ったように下げ、やや垂れ気味な目を美しい家主に向ける。
「てか、あんたこそどうしたの?」
「どうしたのって?」
「……なんだか怖いくらい優しいわ」
答える代わりに白い歯を見せて相方は微笑んだ。ほんの少しだけ首をかしげて。そうして手を伸ばすとさやかの腕を掴み、くい、と引っ張る。その意図するところを読み取って、さやかは黒髪の美女の隣に腰を下ろした。しばらく互いに見つめ合う。
「ほらおいで」
「え」
すぐ傍で、いきなり黒髪の美女が手を広げた。さやかは動揺する。どうしていいものか、身体が動かないようだ。そんな彼女をせかすように美女は両手を動かした。
「う……うん…」
ようやくさやかはおそるおそる黒髪の美女の胸に顔を埋めた。白い腕がさやかの頭に絡まり、柔らかい感触といい香りがさやかを包んだ。
「……なんだか恥ずかしいわ」
「そう?」
いつも寄り添い合って眠りについている間柄なのだから、このような行為は初めてのことではない。だが改めて「おいで」と言われて胸に顔を埋めるのはまた少し違うわけで。
「いつもはもっと恥ずかしいことさせるくせに?」
「………悪かったわね」
黒髪の友人の言葉に顔を赤くしながらさやかは囁いた。くすくすと笑いながら美女はさやかの頭を撫でる。
「よしよし」
そう囁きながら、さやかの頭から背中までこするように撫で始めた。なんだかこそばゆくて思わずさやかの口元が緩む。気持ちよくて目を瞑った瞬間、何かがさやかの頭に当たった。
「?ちょ、ちょっと何…痛!!なんか刺さったわ!」
さやかが思わず身をよじると、黒髪の美女は不満そうに声をあげた。
「ちょっと、動かないで…ついでにブラッシングしてるのよ」
「ブラッシング?」
さやかが思わず顔をあげると、目の前に剣山のようなブラシが現れた。思わず目を見開くさやか。口元が自然にひきつる。
「ちょ…」
「いいでしょ、これ?新作よ」
ウインクなぞして、美女は微笑む。10年経つと人は変わるものだ。だがさやかはそれどころではない。目の前のブラシを凝視しながら叫んだ。
「そ、そ、それ…ペット用じゃない!」
「そうよ、今日わざわざ買って来たのよ」
「買ってきたって…」
「だってまどかが――」
* * *
『ほら、モカおいで』
ワン、ワンと大型犬が桃色の髪の女性の元へと駆けよってくる。
へっ、へっと嬉しそうに前脚を主人の膝へ載せ、尻尾をちぎれんばかりに振ると再びワンと元気よく鳴いた。
『よくなついているわね』
その横で、黒髪の美女が呟いた。桃色の髪の女性はにっこりと微笑んで。
『てへへ、私とモカは友達だから…ね?』
そう言うと、大型犬の身体を優しく撫で始めた。くん、くうん、と鳴くモカ。
『気持よさそうね』
『そうだよ、こうやって毎日撫でてあげると気持もいいし、犬は優しくすると元気が出るものなの』
『ふうん…』
『だからね、ほむらちゃん』
* * *
「私にも優しくしろって?まどかが?」
「ええ…ついでに撫でたらなお「良い」って」
「…まどかったら!」
さやかが幼馴染の名前を呼んで呻いた。
夏に三人(と一匹)で小旅行に出かけて以来、冗談なのか本気なのか、彼女もさやかのことを「ワンちゃん」扱いすることがあるのだ。
「まったく…妙に優しいと思ったら、そういうこと…」
ぶつぶつ言いながらさやかがほむらから体を離すと、「だめよ」と言って手が伸びてまた抱きしめられた。
「な、何よもういいでしょ?」
「まだ撫で終えてないわ、ほら、こうして」
そう言うと、ほむらが両手で前をひっかくような仕草をした。招き猫が両手で招いているようにも見える。「?」とさやかが首をかしげると、もう、とほむらが珍しく声をあげた。
「モカちゃんがしていたようにしなさいよ」
「しなさいよって、どんなよ!」
ほむらは自分の腿のあたりをぽんぽんと叩く。
「ここに前脚をひっかけるように載せて…尻尾を振ってたわ」
「あ、脚って!しかも尻尾って!」
「うるさい犬ねえ…ほら」
ほむらの手がさやかの後頭部にあてられ、そのまま力ずくで強引に膝へと引き寄せられる。
わあ、と声をあげてさやかはほむらの膝に顔を埋めた。いわゆるうつ伏せ状態の膝枕だ。だが素直に飼い主の言うことを聞く気は無いらしい。さやかは顔をあげようと抵抗する。その仕草が可笑しかったのか、ほむらがフフフ、と吹き出した。
「ほら、観念しなさいな…」
「い、嫌よ、は、恥ずかしすぎるわ!」
じたばたと抵抗するさやかと、笑いながらその頭を押さえつけるほむら。まるで海面に顔を押し付けて窒息死させようとする犯人と抵抗する刑事のようだ。ソファで大人の女性二人の膝枕の攻防がしばらく続けられる。根をあげたのは刑事の方だった。
「降参!降参よ!」
「よろしい」
こくりとほむらは頷くと、手の力を抜いた。ほむらの膝の上に頭を載せぐったりと横たわるさやか。はあ、と息を吐くと身を捩じらせた。
「最初からいい子にしてればいいのに」
「……だって膝枕なんて恥ずかしい…うわ!」
さやかが叫んだ。窓に映った自分の姿が恥ずかしいようで、両手で顔を抑えながら身を捩じらせた。その仕草が滑稽で、再び吹き出すほむら。
「変な人ねえ」
「どんな罰ゲームよこれ!」
意外と美樹さやかは恥ずかしがり屋であるらしい。顔を赤らめながらほむらの膝の上でのたうちまわる。
「誰も見てないわよ?」
「み、見られてたら私、死んじゃうわ!」
キャミソール姿の女性の膝の上に、同じくワイシャツ姿の大人の女性が嬉々として頭をのせて横たわっているのだ、通俗的だが、バカップルとしか言いようがない。
――こ、こんな姿、主任にでも見られたりしたら……!
あり得ないことだが、つい想像してしまうのも美樹さやかの悪い癖だった。
「写真でも撮っておく?」
「やめて!」
必死に叫ぶさやかを見て悪魔はさも嬉しそうに笑った。
* * *
夜景の見える窓の傍で、飼い主は忠犬の身体を優しく撫でていた。
「どう?ブラッシングもいいものでしょ?」
「うん…」
うとうとと、気持いいのか、蒼い犬は主人の膝の上に頭を載せ目を瞑る。もうまもなく眠りにつくだろう。
あれから抵抗をやめたさやかは、おとなしくほむらのされるがままになっていた。
「ねえほむら」
「なあに?」
「ありがとう……」
ぽつりと呟くと、恥ずかしそうにさやかは顔を埋めた。どうのこうの言っても、彼女のおかげで仕事の疲れは取れたのだ。
「……別にお礼なんていいわ、まどかに言われて「仕方なく」やってるだけだもの」
「そう?」
「そうよ」
フフフとさやかが笑う。
「仕方なくではない」ことをさやかは知っている。
「じゃあ、お礼は言わないわ、でも代わりに」
「代わりに?」
さやかがほむらを見上げた。ほんの少しだけ頬が紅潮していて。
「……もう少しこのままでいい?」
「いいわよ」
そうして白い手がさやかの頭を撫でる。ほっ、と安堵のため息を漏らして今度こそ「忠犬」は目を閉じた。しばらくして、規則的な寝息が聞えてきたが、飼い主は愛犬を優しくとても優しく撫で続けていた――。
END