最近のペットショップ事情はなかなか厳しい。
生体を販売すること自体反対する人々が多い中、村岡は必死に頑張ってきた。
元々動物好きなこともあったが、脱サラして借金してまで興したこの店をむざむざ潰すわけにはいくまいと血の滲むような思いで経営の傍らブリーダーの元で修業し、トリミングも覚え、動物達の体調管理にも気を配り、ここまで続けてきたのだ。
…だが、ここまでか?
見滝原の中では比較的大きいこのショッピングモールで、なんとか軌道に乗っているとはいえ、月の店舗代やら、人件費を差し引きしてもあまり売上はよろしくない。借金は返済し、赤字では無いが、そろそろこのあたりで店を売り払い、地道にビルの管理人あたりにでもなろうかと村岡が考えたその時、バイトの大学生が慌てた様子でこちらに来た。
「て、店長…あの…」
「ん?どうした慌てて…」
今時にしては硬派な雰囲気(柔道部だったと村岡は思い出す)の黒髪の青年が、なんだか挙動不審で落ち着かない様子だ。訝しげに村岡は銀縁の眼鏡をかけ直し、その手でぽん、と青年の腕を叩く。
「どうした?クレーマーでも来てるのか?」
「いえ…あのお、お客様が」
「客?」
客なんて店だから当たり前だろうに…そう思い、青年の背後に視線を向けると、今度は村岡が挙動不審になった。口をあんぐり開け、左手に持っていた管理帳を床に落した。
* * * *
「ほむらちゃん、私ね犬を飼っているんだ」
幼稚園の広場の隅にあるベンチで、鹿目まどかは黒髪の美しい女性に微笑みながら言った。
背中まで伸びた桃色の髪を束ね、ジーンズに長袖のトレーナーといういたってシンプルないでたち。そこにひよこの絵柄がプリントアウトされているエプロンを着ているものだから、元々幼い顔立ちが更に若返ってみえる。ふんわりと優しく笑うその顔は、成長して一段と美しくなったものの、中学時代から雰囲気は変わっていない。
「そうなの…」
黒髪の女性、暁美ほむらは目を細めて微笑む。まるで目に入れても痛くないとでも言うような、母親が子供を見つめるような眼差し。そうして白い指をまどかの髪へと這わすと優しく撫でる。
「あなたに飼われている犬は世界一幸せだわ」
「えへへ、でも「お手」とか「伏せ」はできても「待て」がなかなかできなくて…」
ちょっとお馬鹿さんなんだよ、とまどかが照れくさそうに言うと、黒髪の美女は何か考えてるようにちょっと上目で空を見上げ、そうして視線を戻した。
「大丈夫よ、うちのよりお利口さんだわ」
「?ほむらちゃん犬飼ってるの?」
「まあ、似たようなものを」
「?」
不思議そうな顔をするまどかをよそに、ほむらはいい風ねと黒髪を抑え、目を細める。
ほむらが世界を変えてから10年、悪魔とはいえほむらも成長し、ようやくまどかとも対等に話ができるようになった。互いに成長し、外見は随分とあの頃に比べて大人びていたが気持ちは変わらないものなのか、こうして語り合うだけでほむらは幸せを感じる。ちょっと前までは蒼い髪の友人を連れ添ってでなければ、こうしてまどかとまともに話をするのも困難だったというのに。
「まどか先生――!」
中年のふくよかで人の良さそうな女性が園舎の前で手を振っている。まどかと同じくシンプルな格好でこちらはパンダのエプロンをしていた。
「はーい!」
元気良く返事をすると、よいしょ、とまどかは軽い身のこなしで立ち上がる。
鹿目まどかは短大を出て幼稚園の先生になっていた。彼女らしい…とほむらは思った。誰にでも優しく愛情を注げるまどかにはぴったりな職業だ。
「それじゃあ、ほむらちゃん私そろそろ行くね」
「ええ」
ほむらもゆっくりと立ち上がる。
「まどか…この間のチョコレートありがとう美味しかったわ」
「あ、ほんと?よかった、フフフ、久しぶりに手作りしたから心配で」
照れたように頭を掻くまどかを愛おしそうにほむらは見つめて、さやかも美味しかったって言ってたわよ…と囁いた。
「あ、ほんと?さやかちゃんあんまりそういうの気にしなさそうで不安だったんだ…よかった」
「まあ、あの人なんでも食べるから…そんなに気を使わないであの人には一口サイズの既成のチョコでもよかったのに」
実際に自分が行ったことをさらりと悪魔は人ごとのように言ってのけた。まどかはフフフと笑った。
「仲いいなあ、二人とも」
「そんなことはないわ」
それじゃ、と言ってまどかは駆けだした。そしてあ、と呟いて振り向く。
「ほむらちゃん!今度公園で一緒に犬のお散歩しようよ!さやかちゃんも一緒に!」
「ええいいわ」
そうしてまどかは園舎の中に入っていった。
微笑みながらしばらくまどかの後ろ姿を見つめているほむらだが、ふと何か思いついたように踵を返し、足早にその場を去った。
――まどかのお返しどうしようか?
こないだ蒼い髪の友人とまどかへのお返しを話し合ったが、まったく思いつかなかった。
互いに、貴方本当に幼馴染だったの、だの、あんた本当にまどかのこと超愛してんの、だの口論になったが。
――とりあえず、それは私が考えるわ、貴方だと変なことになりそうだから
――うわ、ひど
――それより貴方は私のお返しを考えなさい
――はあ?あんたあのチロルチョコでマジ…
――いやなら私がリクエストするわよ
――考えるわ、まかせて
ふふ、とほむらに笑みが浮かぶ。さやかが素直なのは理由があった。社会人になった時にはじめての給料で舞い上がったさやかは、無謀にもほむらになんでも奢ると言ってしまったのだ。結果…給料の半分がその日で無くなってしまった。
ないわーと軽く呟き、しかし非常に悲しそうな顔をしたさやかを何故かほむらは鮮明に覚えている。
「…ここね」
足を止め、ほむらが見上げた先には見滝原でも有名なペットショップだった。
彼女はまどかへのお返しで飼い犬のペット用品を候補にあげたらしい。
…だが、そんな事情を全く知る由のない村岡達はそれどころではなかった。
「て…店長?…店長ってば」
自分よりも遥かに大柄な青年に肩を揺さぶられ、村岡は我に帰る。
そして目の前の人物が幻ではないと確認するように、目をごしごしとこすった。
しかし…彼女は存在している。
「な…なにかテレビの取材とか撮影ですかね?」
「いや…俺はそんな話聞いていない、どっきりにしてもあれは…違うだろ」
「まあ、はい」
二人の視線の先には長い黒髪の女性がいた。遠目からでも「かなりの美人」とわかる恐ろしいほどの美貌だ。この世のものだろうか?と村岡が訝しがるが、まさか真昼間から幽霊が出るわけもなく、悪魔でもないだろう…と思い直す。実際村岡は正解を引き当てていたわけだが、それは永遠に知る由もない。二人が固唾をのんで見守る中、女性は口に指をあてながら何かを物色しているようだ。と、じろ、と女性がこちらを向いた。アメジストの瞳を見た二人は見惚れたようにぽかん、と口を開ける。
「ちょっと…」
は、はい、と二人同時に声をあげ女性に向かって歩き出すが、カウンターと商品棚の間で挟まり変な声をあげた。ぶつくさ言いながら、ようやく脱出すると青年がリードして先にほむらの元へ着いた。深々と頭を下げると口を開く。
「は、はじめまして!」
村岡がこめかみを抑えた。
「いらっしゃいませ」以外の声掛けを俺は教えた覚えはないぞ、とでも言う様に。
「犬の餌ってどこにあるの?」
「は、はい!こちらです」
大げさ極まりない動作で青年は美しい客を案内する。目の前のドライフードの袋を見てほむらはふうん、と呟く。
「美味しくなさそうね」
「は、はあ、でもドライフードの方が常食には向いていますよ、栄養価もありますし、保存もいいし…」
慌てた様子で身ぶり手ぶりで説明する青年の横から、村岡が出てきて補足する。
「まあ、ワンちゃんのご褒美ならこのウェットタイプの缶詰はいかがですか?」
「あら」
目を細め、手を差し出す美女に、村岡は恭しく缶詰を渡す。優雅にそれを受取りうっとりと見ている彼女を見ていると、缶詰がまるで違うものに見え、村岡は自分が貴金属店にでも勤めている錯覚を覚えた。
「これは…ご褒美用なの?」
「ええ、常用にしているところもありますが、普段はドライフード、ご褒美でこちらを使用している方が多いです。ワンちゃんもこちらが美味しいようで」
「ふうん…面白いわ、ご褒美ね…」
そうして、また黒髪の女性は興味深げに缶詰を見つめ、何か思いついたように口元を緩ませて村岡に視線を向けた。見惚れて固まる村岡。
「ねえ、これって人でも食べれるの?」
「は?」
* * * *
「…てか、それ犬のでしょ!犬の!」
「あら、でも毒じゃないから大丈夫って店長さんが言ってたわよ」
「却下よ!」
軽くテーブルを叩くと、まるで威嚇するかのように美樹さやかが、ほむらに顔を近づける。
面白そうに頬杖をついて、上目遣いで見上げるほむら。その笑みが妖艶なものだから、さやかは自分が怒りのために身体が熱いのか、それとも見惚れて熱いのかわからなくなった。
「…たくこの悪魔は」
そっぽを向いて蒼い髪をがしがしと乱暴に掻く。
――ほんと気を抜くとろくでもないことするんだから
はあ、とさやかがため息をつく。
そもそもついさっき、ほむらが鼻歌交じりで家に戻って来た時点でおかしかったのだ。
非番明けで朝早くに戻って来たさやかは一人のんびりコーヒーを飲んでいたものだから、玄関が開いて歌が聞こえた時には驚いた。目を見開き友人の姿を見れば、珍しくセータースカート共に白尽くし。しかも手にしているのは買い物用のビニール袋。見慣れない友人の姿にさやかは驚愕を隠せなかった。しかも追い打ちをかけるように
「フフフ、さやか、見て…いっぱい買い物しちゃったわ」
笑顔で買い物袋の中身をみせようとする彼女。
がたん、とさやかは思わずコーヒーを零した。
「熱っ、熱い!」
慌てて立ち上がってタンクトップを叩く。
「あら、どうしたの相変わらず愚図ねえ」
「う、うるさいわねっ、あ、あんたが別人モードだからでしょ!びっくりするわ」
そう、あまりにも見慣れない友人の挙動に、さやかは驚いたのだ。どこか知らない女の家に自分は迷い込んだのかと思わず立ち上がりかけ、コーヒーを零すという失態を起こしてしまった。
「ねえ、大丈夫?あんた…なんか悪いものでも食べたの?」
「貴方にお土産を買ってきたわ、ご褒美よ」
訝しがるさやかに気にすることなく微笑みながら友人が見せたのは缶詰だった。これみよがしにさやかの前で缶詰を振って「ご褒美」とか言うものだから、てっきり好物の缶詰なのかと思い「さば?」と聞いてしまったが、友人は「違うわよ」とニヤリと笑った。
なんなのよ…とさやかが思って缶詰をよく見ると、まず目についたのは犬の顔だった。
なんだか庇護欲をそそるような瞳の犬が数匹さやかを見ている。傍に「愛犬のご褒美に」というフレーズがあって。
「犬の餌じゃない!」
数秒後にさやかは大声をあげたのだ。
そうして時は戻る。
「まったく…まどかの犬のために下見に行くのは感動ものだけど…」
さやかはテーブルにピラミッドのように積まれた缶詰を指差し。
「これはいただけないわ!」
「なんで?さばより高いわよ」
「だーかーらー、買いすぎなのよっ!…て、違う、違うわええっと、対象がおかしいのよ、わかる?」
だめだ…とさやかは思った、相方が本気なのか冗談なのか全くわからない。
「…せっかく楽しかったから買ってきたのだけど」
「あ、まあそれはあんまり買い物につきあえない私も悪いけどさ…」
痛いところを突かれてさやかがおとなしくなる。そうなのだ、ここ最近同居しているとはいえ一緒に買い物に出かけたことはない。人外である彼女は、普通の人間の頃からこのように買い物など人らしいことをする機会が無かった。もしかしたら彼女は純粋に買い物が楽しくて、ついお土産を買いたかったかも知れない。同居人のために。
――言い過ぎたかな、とさやかは心を痛める。
「ねえ、ほむら気持ちはすごい嬉しいけどさ、これ…まどかの犬にあげた方がいいんじゃない?ね?その方がまたまどかとも会えるしさ、電話してみなよ、喜ぶって」
「まどかに?そうね…」
まんざらでもない表情を浮かべる美貌の友人を見て、さやかはほっとする。まどかをだしに使った感もあるが、相方を悲しませるわけにもいかず、だからといって、さやかがドッグフードを食べるわけにもいかず、彼女なりのベストな折衷案だ。
「あ、そうだわ、それと…」
思いだしたように、ほむらが袋に手を入れる。不安げにそれを見つめるさやか。だが、彼女が手にしていたのはピンク色の柔らかそうなゴムボールだ。へえ、何これ?と興味深げなさやか。
「ふふふ、面白いのよこれ」
ほむらがボールを握ると実際柔らかいのだろう、見る間に潰れ、同時に「キュウ、キュウ」と小動物が鳴いているような音が出る。動物のおもちゃだ。目を輝かせるさやか。
「わ、面白そう、触りたい、貸して貸して!」
嬉々として手を伸ばす蒼い髪の友人に微笑みながら、ほむらはゆっくりと右手をあげ、オーバースローでボールを台所へ向けて投げた。
「あ!もう、ちょっとお!」
怒りながらも、さやかは軽い身のこなしで台所へ向かっていく。背をかがめてボールを取ると「キュウ、キュウ」鳴らしながらほむらの元に戻って来た。
「ったくう…人が触ろうとしたらすぐそんな風に、あんたってほんと意地…どったの?」
さやかが気付けば、ほむらはテーブルに突っ伏して小刻みに震えていた。
「ほむら?」
「て…店長の言ってたとおりだわ…く、くるし…」
ほむらは苦しそうに右手でお腹を抱え…笑っていた。
「な…」
「貴方ってほんと…忠犬ね」
「この!ほむらー!」
とうとうさやかは二回目の大声をあげた。
――え、でもほんとにいいの?ほむらちゃん、そんなにもらって
「ええ、いいわよ、あなたの犬のためよ」
――ありがとう、ほむらちゃん
結局あのドッグフードはまどかの犬にあげることにした。ほむらはそれはもう嬉しそうに彼女に電話をかけている。細めた目はベッドの上で行儀悪くあぐらを掻きながらボールに戯れている蒼い髪の忠犬に注がれていて。ソファに座っているほむらは黒髪をいじりながら、それを面白そうに見ている。忠犬はタンクトップ一枚、その飼い主はキャミソール。二人はさっきまで激しく「じゃれあって」いて。ほむらはゆっくりと立ち上がった。
――ねえ、ほむらちゃん、じゃあ今度の土曜日、その時に私の犬と一緒にお散歩にでかけない?
「あら、素敵ね…いいわ」
――ほむらちゃんも気にいるといいな、私の飼っている犬
蒼い髪の忠犬に近寄ると、ほむらは白い手を伸ばす。
「それじゃあ、私も連れてきていいかしら?」
――え、ほむらちゃんもほんとに犬飼ってるの?
「ええ、ちょっとお馬鹿さんだけど忠犬をね」
それから軽く二言、三言話してからほむらは電話を切った。
「…まどかなんて?」
頭を撫でられながら、気持良さそうに忠犬は飼い主を見上げた。
何も答えず、黒髪の主人は携帯をサイドテーブルに置いてその蒼い瞳を見つめる。
そうして、ベッドに上がると蒼い犬を抱きしめた。
「今度の土曜日、お散歩に連れてってあげるわ…」
へ?と何か言いたげな犬の口を塞ぐように、黒髪の主人は大きく口を開きゆっくりと重ねて黙らせた。そうして静かにするようにしつけると、今度は優しく命令する。
「さっきの続きをしましょう?」
忠犬は吠えないものらしい。ただ素直に頷く、飼い主はそれはそれは満足そうに微笑んだ。
END