大学の一般教養ほど眠気を誘うものはない。
「ふああ…」
さやかは口を抑えるが、あくびを噛みころすことができなかった。涙目で必死にノートを取る。こんなに眠いのに眠れないなんて、なんだか理不尽だ…とさやかはずれたことを考えた。ノートにはびっしりと化学式。相方がいれば優しく(頭をはたきながら)解説をしてくれただろうが、今日はあいにくその美しい相方は不在らしい。彼女の横にいつも座っている黒髪の美女はなく、代わりに空席のイスにさやかの青色のリュックがちょこんと置いてある。
「どこいってんだか…」
さやかは一人呟いた。広い大学の講堂は7割ほど人が埋まっていた。理系の一般科目にしては人気の講義だ。相方の担当教授でもある初老の女性が教鞭をとっていた。その講堂の隅っこに美樹さやかは座っている。
あまり大学では喋り合う機会がない二人が、せめてひとつの講義くらいは一緒に受けようと選んだのがこの週末の一般教養「化学」。常に人の注目を浴びる相方が、人目を避けて講義開始時刻ぎりぎりにさやかの隣に座るというのが日課だったのだが。
つ、とさやかの背中に白い手が置かれる。一瞬びくりとさやかは身体を強張らせ、そっと振り返ると恐ろしいほど美しい相方の顔が目の前にあった。
「ほむら…どこいってたのさ」
小声でさやかは相方に問う。黒髪の美女――暁美ほむらはさやかの問いには答えず、ただ、人さし指を立てて前後に動かした。「おいで」のジェスチャーだ。
「?」
さやかはきょときょとと周囲を見渡して、青色のリュックを持つと、ほむらと連れだって、こっそり講堂から出た。
* * * * *
「どうしたのさ、いったい?」
暖かい日射しに、晴れた空。屋外に出ると気持ちがいいのだろう、いきなり外へ連れ出されたというのに、機嫌よくさやかは相方に尋ねた。
「大変なのよ…」
ほむらはやや暗い面持ちで呟く。こんなにいい天気なのに、沈んだ様子の相方が不憫に思ったのだろう、さやかは心配そうな表情を浮かべる。
「大丈夫?」
こくり、とほむらは頷いた。白のワンピースに青のカーディガンを羽織った彼女は、とても「悪魔」などというシロモノには思えない。思わずさやかは見惚れてしまう。こうして見ていると、理系の知的な美女だ。しかも絶世の。
「…これ見て」
ほむらが紫色の携帯をさやかに差し出す。
「え、見ていいの?」
さやかは恐る恐るほむらの携帯を手に取ると、画面に見入る。
「これって…」
さやかは驚いてほむらを見つめる。ほむらはただ悲しそうに頷いて。
「今日、まどかはコンパに行くらしいわ」
ほむらの口から「コンパ」という単語が出てくると、何やら不自然な感じがするのは、彼女が美しすぎるからか。どうにもこの黒髪の美女には世俗的な用語が似つかわしくない…とさやかは思う。画面に映っていたのは、まどかからのメールだった。週末だから、三人で飲みに行こうとさやかが提案し、ほむらがまどかにメールを送った結果がこれだ。
「そっかあ、まどかも短大生だしね…仕方ないか」
「……大丈夫かしら、変な男が絡んできたら…」
ほむらが眉を潜めて呟く。どうやら愛おしい友人の身が心配なのだろう。普通なら、笑い飛ばせる話だが、この三人の間では事情が違う。さやかは心配そうにほむらを見つめる。黒髪の美女――暁美ほむらは、鹿目まどかを想うがために、人外となり、世界を変えた。さやかはほむらと協定を結び、こうして生活を共にしているわけだが、彼女のまどかを想う気持ちの強さは痛いほど知っていた。思えば中学の時からずっと、まどかに異性の友人ができるたびに二人でハラハラしたものだが。
「大丈夫だって!あんた考えすぎよ、コンパだからってそんな簡単に…」
「いいえ、わからないわ、貴方みたいにホイホイ可愛らしい子についていく人もいるのだし…」
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないで!」
どうやら、この前の、さやかが司会をしたコンパのことを言っているのだろう。女友達に誘われ、さやかがコンパに参加しそうになるところにほむらも乱入し、王様ゲームでは二人で濃厚なキスをやらかすというとんだ珍事をやらかしたのだ。顔を赤くして抗議する友人をしり目に、はあ、とほむらはわざとらしくため息をついて首を振った。
「心配だわ…貴方みたいに見境なく迫る人がいるから、まどかは可愛いし、優しいし…」
「何それ!男か!」
黒髪の友人が冗談を言っているのか、本気なのか、もはやさやかにはわからなかった。と、ふと周囲がざわついているのにさやかは気付く。キャンパス内を行き交う学生達が皆こちらを見ているのだ。くすくすと笑いながら見ている者。妙に顔を赤くして見ている者など、いろいろな想いをのせた視線を感じる。さやかは頭を掻きながら、ほむらに言った。
「とりあえず…どうするの?」
「どうって…」
「心配だったらさ、見張ればいいじゃん!」
「え?」
「大丈夫、このさやかちゃんにまかせなって!」
にっこりと得意げにさやかは微笑んで、そうして相方の肩をバン、バン、と強く叩く。顔をしかめるほむら。悪魔相手にこういうことができる相手は、美樹さやかしかいない。悪魔は小さくため息をついて、そうしてほんの少しだけ顔を赤らめた。
* * * *
ほむらとさやかはもう二十歳を過ぎている。
「なんだかあっという間に大人になったねえ、私達…」
「何を今更…」
さやかが「お酒は20歳から」と書かれたポスターを見ながら、しみじみ呟く。そうして、豪快にビールの入ったジョッキを飲み干した。あきれた様子でそれを見守るほむら。
「お、嬢ちゃん豪快だねえ、どうだい、もう一杯?」
「あ、はい、お願いします」
にこやかにカウンターの板前にさやかは笑いかける。「おう」と威勢よく答えてから、がっしりとした体躯の板前はさやかからジョッキを受け取って、下がっていった。
「ちょっと…本当にここなの?」
ほむらが眉を顰めながらさやかに囁く。ここは大学近くにある居酒屋のカウンター、割烹料理を売りにした、どちらかといえば、中年の男受けしそうな硬派な店である。店のBGMは昭和の演歌、ほむらが手に持っている茶碗は無骨に大きくて、魚の名前がびっしりと漢字で埋まっていた。
「大丈夫って…コンパ会場の名前はこの居酒屋だったわ」
「…信用できないわね」
フン、と言いながら、ほむらは大きな茶碗を手に取り、数回息を吹きかけてお茶を啜った。彼女は猫舌だ。
「はい、ビールお待ちどう!そっちの美人ちゃんもどうだい?」
輝きそうな白い歯を見せながら、板前が微笑む。刈り上げた短い髪に鉢巻き、がっしりした体躯に腕にびっしりと生えた体毛。どうみても一昔前の海の男だ。
「いえ…結構です、どうも」
気押されて、遠慮がちな声になる黒髪の相方を横目で見て、さやかはニヤニヤと笑う。こんな悪魔を見るのは初めてだ。
「……面白がらないでよ」
さやかの視線に気づき、きっ、とほむらが睨む。肩をすくめるさやか。
「ごめん、なんだか新鮮でさ…あれ?」
さやかが目線をあげる。その視線に合わせるほむら。大学生らしき若者が数名ぞろぞろと店内に入って来た。
「まどかだ」
「そうね…」
可愛らしいワンピースを着て、にこやかに笑うまどかが店内の奥へ入っていく。友人らしき女性と少し派手な軽薄そうな男性が数名見えた。ちらりとすぐ横にいるほむらの顔をさやかが覗き見る。この世の終わりのような表情を黒髪の美女は浮かべていた。
「ちょ、ちょっと…何そこまで辛そうな顔してんのよ!」
「だって…あんな軽薄そうな男と…まどかが…個室で」
「いやいやいや、あんた何言ってんの!ただのコンパだし、考えすぎよ!…あいたぁっ!」
思わず大きな声をあげて飛び上がるさやか。ほむらがさやかの足を踏んだのだ。パンプスのかかとがさやかのスニーカーに刺さる。
「ん?」
「どうしたのまどか?」
桃色の髪の女性――まどかがカウンターの方へ顔を向ける。
――誰もいない。
「ううん、なんでもない、なんか友達の声が聞えたような気がして」
「そうなの?もしかしたら飲みに来ているのかもね」
「うん、それだったらいいのにね…えへへ」
そうしてまどかと友人は、奥の個室へと入っていった。
「……行った?」
「行ったわ」
カウンターで上体を限界まで屈め、ほむらとさやかは身を潜めていた。涙目でさやかがほむらを睨みながら身体を起こす。
「ちょっと…なんで人の足を踏むのよ!」
「貴方が悪いのよ…ただのコンパだなんて、私は真剣なのに…」
口を尖らせて拗ねるほむら。う、とさやかは口ごもる。どうにもさやかはこの美貌の友人に弱い。どうしても見惚れてしまって反論ができないのだ。
「う…わ、悪かったわよ…ほら、あんたも飲みなって、すみません、日本酒お願いします!」
はあ、とため息をついて、ほむらは姿勢を正す、どうやら気を取り直したようだ。黒髪を梳いて、そうして、蒼い髪の友人に囁いた。
「…ねえ、ここってワインはないの?」
* * *
冷えた日本酒が喉を通るのは格別に気持がいい。さやかは「美味い」と唸りながら、コップの酒を飲みほした。まるで中年男性のような飲みっぷりだ。その横で、ちびちびと同じく日本酒を味わう黒髪の美女。二人とも顔が赤い。すでに店に入ってから一時間は経過している。
「どう?日本酒もなかなかいいでしょ?ほんとはバーボンが好きなんだけどね」
えへへとさやかは笑う。
「そうね…私もワインが好きなんだけど、これもなかなか…いけるわ」
コップの先を持ち、くるくると回すほむら。そうして頬にあて目を瞑る。酔いが回ってきたのだろう、なんだか艶っぽくなった友人に見惚れてさやかは視線を外せなくなってしまった。
「あら?何見ているの、美樹さやか?」
とろんとした目で見つめられ、囁かれる。
「え…いや、あんたなんだか色っぽいわ」
「あら…何、いつもはそうでもないってこと?」
「いや、違うわ、あんたは…いつも綺麗よ」
顔を赤らめて、さやかは囁く。そうなのだ、彼女はいつも綺麗なのだ。夜、寄り添いあって眠る時の彼女の顔を思い出して、さやかは目を伏せる。
「……変な人」
くすくすとほむらは目を細め、笑いだした。そうして、ことん、と頭をさやかの肩に乗せ、もたれかかる。驚くさやか。
「…一緒に住んでるくせに、くどいてどうするの?」
「え、いや、それは…」
上目使いでさやかを見上げるほむら。それはあまりにも妖艶で、美し過ぎて、さすがに同性のさやかでもどうにかなりそうだ。ごくりと喉を鳴らした後、さやかは視線を反らし、わざと大きな声で話題を変えた。
「まどか達、遅いなあ…そろそろ終了してもいいんじゃ」
「そうね…貴方見に行ってきてよ」
「無理でしょ!」
* * *
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様、また飲みましょう」
個室から、数名の若者が出てきた。特にカップルが成立したわけでもなさそうで、皆それぞれに帰路につく。
「…?まどかどうしたの?」
短大の友人が、不思議そうにまどかに声をかけた。桃色の女性が、何かを見つけたように声をあげ、カウンターの方を見つめているからだ。
「うん、私、もう少し残ってから帰るね」
「え?誰か知り合いが店にいるの?」
「うん、二人もね」
てへへとまどかは笑った。
* * *
「まったく、しょうがないなあ…」
困ったような、嬉しいような複雑な表情を浮かべてまどかは「二人」を見ていた。
「ん…まだ飲め…」
「う…ん…」
身じろぎしながらカウンターで突っ伏して眠りにつくさやかと、その背中に顔を寄せて、もたれるように眠る黒髪の女性。まどかを見張っているつもりが、二人とも酔いが回って潰れてしまったのだ。
「嬢ちゃん、この子達の友達かい?」
板前が笑顔を浮かべながら声をかけた。まどかが頷くと、そうかい、と板前が笑った。
「気持ちよさそうに寝てるもんだからさあ、もう少ししたら嬢ちゃん起こしてくれないかな?」
「はい」
まどかは微笑みながら二人を見つめる。
二人を起こしたら、三人で飲もうと思いながら。
END