「夏季休暇?」
美しい眉を少しあげながら、黒髪の女性が不思議そうに目の前の蒼い髪の女性を見つめる。
「うん、それでどこか行こうかなって…」
「ちょっと、どうして社会人なのに夏季休暇があるの?」
パンを咀嚼しながらもごもごと話していた蒼い髪の女性が、ぐ、と喉を詰まらせコーヒーカップを慌てて口に運んだ。
「………しゃ、社会人でもあるのよ!ないところもあるけど、とりあえず公務員にはあるわ」
「…納得できないわ」
黒髪の女性は首をかしげながら、学生でもないのに…と呟く。彼女は大学卒業後、特に定職に就く訳でもなく、それでいて蒼い髪の女性よりも「稼いで」いる。伏し目がちに、色鮮やかな料理をナイフで優雅に切り崩しながら「それで?」と黒髪の女性は相方に続きを促した。だが蒼い髪の女性は返答しない。フォークを口元に運び、口を半開きにしながら、不思議そうに黒髪の女性は顔をあげた。
「さやか?」
「へ、ああ、ごめん」
蒼い髪の女性――美樹さやかは頭を掻きながらへらへらと笑った。頬が微かに紅潮している。
「それで、二人でどこか旅行しない?」
意を決した割りには、言いにくそうに、語尾が小さくなっているのを当人が気付いているかどうか。既に彼女達は8年も生活を共にしているにも関わらず、未だ美樹さやかの方は「相方」に対して思春期めいた「照れ」を見せるのだ。長い黒髪の女性はそれを知ってか知らずか、ふ、と一瞬口元を緩め、料理を口にした。しばらく味わうように咀嚼する。家での遅めの朝食は、ゆったりとして快適らしい。さやかはタンクトップ、黒髪の女性はキャミソールというくだけた格好のまま、リラックスして食事を行っていた。咀嚼を終えた後も黒髪の女性は返事をせず、ゆっくりとコーヒーを飲む。これにはさすがにさやかも落ち着かないのか、名前を呼んで返事を促した。
「ほむら」
カップをテーブルに置いてから、黒髪の女性――暁美ほむらは優雅に微笑んだ。世界を改変してから10年も経つと彼女もこのように笑えるのだ。
「いいわ…どうせやることもないしね?」
「やった!」
嬉しそうに右手でガッツポーズを取る相方を面白そうに眺めながら、ほむらは目を細めた。
「ところで行き先は決まっているの?」
「え…えへへ、どっかアトラクションとか行きたいなあって」
「アトラクション?」
批判するような目付でほむらはさやかを見つめた。だが、テーブルの向こう側の相方はお構い無しに、派手なジェスチャーと擬音でアトラクションを再現するので、ほむらは、はあ、とため息をついた。
「嫌よ」
「ええ?なん…」
細いほむらの人さし指がさやかの唇を抑える。二の句が継げず、身を固めるさやか。ほむらは妖しく微笑んで。
「…私が騒がしい所苦手なの知ってるでしょ?」
甘く囁きながらゆっくりと人さし指を離すと、ワンテンポ遅れてさやかが声も無く、こくりと頷いた。その仕草が可笑しかったのか、しばらくほむらはくすくすと笑う。ばつが悪そうに眉を困ったように下げながらさやかは言った。
「―――そ、それじゃあ、何処に行きたいのさ?」
「そうね――」
ガタ――
相方の質問には答えずに、ほむらは椅子から立ち上がった。上体を屈め向かい側の相方へ顔を近づける。
「ほむら?」
顔があと数センチほどで接触する。顔を赤くするさやか。互いの息が感じ取られる距離でほむらは一瞬動きを止めた後、さやかの耳元へ顔を寄せ甘い声で囁いた。
「内緒」
「へ?」
そうしてほむらはいきなりさやかの耳を噛んだ。小さく悲鳴をあげ、耳を抑えるさやか。
「あいた!あんた何すん…」
「私が計画を立てるわ」
「え?」
きょとんと目を見開くさやかと細めるほむら。
「ねえ…いいでしょ?」
そう囁かれて小首をかしげられるものだから、さやかは頷くしかなかった。にっこりと微笑む悪魔。
「楽しみだわ」
そう言って、ほむらは軽やかに台所へ向かっていった。何か懐かしい歌を口ずさみながら。
どうやら悪魔ははしゃいでいるらしい――
* * *
「行き先がわかんねえだと?」
初老の男にどやされ、さやかは身をすくめた。休暇届の申請書を思わず握り潰してしまい、くしゃくしゃになる。
「はあ、まだ決めて無くて…」
「決めて無いだと?」
それでもへらへらと頭を掻きながら答える部下に業をにやしたのか、白髪の上司は馬鹿野郎、と怒鳴った。
「お前な、警官だろうが!誰と行くかはどうでもいいが、場所くらい決めておけ、ボケ!」
他の公安職でもそうだが、警察官の場合、休みでも、管轄区外に遠出する場合は遠出の届出をしないといけない。それを怠った場合、長期休暇でも遠出は一切できなくなる。
「わかりました…」
ニヤニヤと周囲の刑事が笑みを浮かべている中、美樹さやかだけは青ざめて。
――マズイ、マズイわ!
さやかは心で叫ぶ、このままだと旅行がパーになる。執務室を出て、慌てて携帯を取り出すと相方を呼びだす。
『……おはよう、おまわりさん』
ようやく相方が取ったと思ったら、かなり不機嫌な声が聞え、さやかはまた身をすくめる。
悪魔は朝に弱かった。
「あ、ご、ごめんほむら寝てた?」
『…私の声聞いたらわかるでしょ?…それじゃ、お休み…』
「ちょっと!ちょっと待って、きらないで、ほむらっ、まずいのよ!」
支離滅裂ながら、さやかは必死に事情を説明する。ようやく受話器の向こうの相方が理解したのだろう、いつもの人をからかうような笑い声が聞える。
『あら、じゃあ、私が岡山さんに話すわ、変わって頂戴』
「な、そ、そんなことできるわけないでしょ!」
顔を赤らめてさやかが叫ぶ。公務上の上司に部下の相方が休暇の説明をするなんてあり得ない。もし仮にその様な状況になったとしたら、恥ずかしさと気まずさで自分はどうなってしまうだろう、とさやかは思った。
『どうして?』
彼女が冗談なのか本気なのか、さやかにはさっぱりわからない。だからさやかは普通に答えた。同僚の刑事を例えて。
「どうしてって…嫁が旦那の職場の上司に気軽に話しなんてしないでしょう?」
『………』
「それと一緒…て、ちょ、ほむら?ほむらってば!」
携帯が切れた。
「もう、人の話しも聞かないで!」
さやかが腹ただしげに携帯を振る。そうして壁にもたれるとため息をついた。
「どうしよう…」
と、しばらくして携帯が軽く振動する。メールだ。送り主は黒髪の相方。タイトルは「旅行先」
「まったく…口で言えばいいのに」
呟きながら、さやかは本文を読む。
え、と驚きの声をあげながら、さやかの目が見開かれた。旅行先をたった今知ったのだから仕方ない。
だが、その旅行先に文句のつけどころなどないのだろう、さやかは笑みを浮かべ、目を輝かせていた。
それからすぐにさやかの「遠出の申請」は受理された――。
* * *
「なんだか、悪いわね」
その夜、さやかは申し訳なさそうに囁いた。不思議そうに首をかしげ、ほむらは相方を見下ろした。
「どうして?」
「あんたにばっかり準備押し付けてさ」
さやかの手がほむらの頬に触れる。ほむらは猫のように目を細めて。
「あら、貴方にしては珍しくしおらしいわね?」
「だって…」
馬鹿ねと囁いて、ゆっくりとほむらが体を沈めた。密着する二人の身体。月の光が彼女達の白い肌とベッドのシーツを照らす。二人は「行為」をたった今終えて余韻に浸っていた。腕を互いの身体に絡め、抱きしめ合う。心地よさで、どちらからともなく漏れる吐息。
「たまにはいいと思ったのよ」
「え?」
さやかの上でもたれたまま、ほむらは囁いた。
「私が見たい景色を貴方にも見せたいと思ったの、だから…別に気にしないでいいわ」
「ほむら…」
彼女はいつからこんなに優しくなったのだろう?思わずさやかは口に出して聞いた。はあ、とため息をつく黒髪の美女。抱きしめ合っているため、表情は見えない。
「貴方はまだ私をわかっていないのね」
「え?」
ほむらが顔をさやかに向けた。至近距離で、目と目が合う。アメジストの瞳と蒼い瞳。ほむらは唇をさやかの頬にあてると、そのまま耳元までスライドして囁いた。
「……もう10年も経つのよ?」
さやかは困ったように、ほむらの艶のある黒髪を撫でながら言葉を探す。口を開くが言葉が出てこないのか、また閉じた。さやかの肩口に顔を密着させながら、ほむらはくっ、くっ、と喉を鳴らす。
「しょうのない人…」
そう囁いて、ほむらは上体を起こした。微かに呻いた後、身体を少し前に屈める。そうして潤んだ目で相方を見下ろして、小さく、とても小さく囁いた。
「……嫁ってそういうものなんでしょ?」
「ほむら」
そうしてさやかも、ようやくほんの僅かだが理解した。この10年で起きた互いの「変化」。
「続きをしましょう」
恥ずかしさを隠すように、ほむらはほんの少しだけ乱暴な口調で囁くと、再びさやかに覆いかぶさる。今度は腕を強く肩に回して。二人は行為の「再開」を選択する。今度はゆっくりと体を反転させて、「飼い犬」が「悪魔」の上に覆いかぶさった。
「ほむら」
「……なあに?」
ほんの少しだけ、吐息の交じった二人の声。
「旅行…楽しみね」
なんの捻りもない無邪気な台詞に何を思ったのか、ほむらは目を細め微笑んだ。
「そうね…」
楽しみね…と言おうとしたが、声にならず喘ぎ声が出る。
ほむらはため息を漏らしながら、抱きしめる指に力を入れた。
それから数日後、ほむらの計画した旅行に二人は出かけることになるが、それは後のお話。
END