心に響く歌というのは、時代を超えて、世界も越えて万人に通ずるものである。特に演歌はそうだと、美樹さやかはすぐ隣に座っている幼馴染に告げられた。
「ほんとうにね…演歌って人の心を掴むんだよ、あ、この曲もとてもよくって…」
両手を合わせながら、桃色の髪の女性はにこやかに微笑む。その横で「そう?」と呟きながらさやかと更にその隣に座っている黒髪の美女は店内の曲に聞き入った。
「……うん、まあ心に響くわね」
そう言って、さやかは日本酒の入ったグラスを口につけた。さきほどまで彼女は酔いつぶれていたのだが、少し眠ったからか回復しているようだ。そうしてさやかはちらりと隣でおとなしく座っている黒髪の友人を覗き見る。大学で「人外」と揶揄されるくらいの美貌の持ち主が、グラスの日本酒をちびちびと飲んでいる。顔は赤い、すでに彼女自身の飲酒の「致死量」は超えているはずだ。彼女が泥酔したらどうなるのだろう?とさやかは密かに戦慄した。
「フフフ…」
妙に艶っぽくなってしまった黒髪の美女が、グラスを持ちながら微笑んだ――焦点が定まらないのかカウンターの前に置かれている新鮮な魚介類に視線を向けながら。そうして、ゆっくりと、桃色の髪の女性へ顔を向ける。
「まどかの好きな曲なら私も好きよ…」
「わあ!」
そう呟きながら黒髪の美女はすぐ隣のさやかに倒れるようにもたれかかってきた。その勢いで、さやかは桃色の髪の女性――まどかにもたれかかる。まどかが悲鳴をあげながら笑った。
「ちょ、ちょっと、あんた、喋るかもたれるかどっちかにしなよ!」
さやかにもたれかかった黒髪の女性は、猫のように目を細めながらその腕にしがみついている。だいぶ酔いが回っているようだ。普段の彼女なら人前で蒼い髪の友人に対し例え事故でもこのようなことはしない。
さやかの言葉に数テンポ遅れて、黒髪の女性は目を開けた。
「あら…私とまどかの間に入るなんて…貴方何様?」
「さやかよ!てか、あんたがこの席でいいっていったんでしょうに!」
まどかが思わず吹き出した。
「もう、二人ともさっきまで酔いつぶれてたなんて思えないね」
にこやかにまどかが微笑むと、さやかと黒髪の女性は同時に照れくさそうに微笑んだ。
そう、二人はついさきほどまでは酔いが回って、このカウンターで潰れていたのだ。
* * *
美樹さやかと暁美ほむらは、鹿目まどかが短大の友人達とコンパに行くと聞いて、そのコンパ会場であるこの居酒屋で張り込んでいた。張りこみといっても、カウンターで日本酒を味わいながらのものだが。
『……コンパなかなか終わらないわねえ』
いい加減酒豪のさやかでもだいぶ酔いが回ってきたのか、顔はほんのり紅潮している。
その横でさやかにもたれるようにして、不安げに奥の個室へ視線を向けるほむら。こちらは顔がだいぶ赤い。それなのに、まだ飲む気なのかグラスは持ったままだ。
『…大丈夫かしら…中で何か…』
悲壮な表情でほむらが呟くと、さやかが苦笑した。
『大丈夫よ、そんなことないって、みんないい大人よ?』
『……いいえ、わからないわ…まどかはあんなに…可愛いし…優しいし、きっと…貴方みたいな見境ない人にも優しくて…断れなくて、それで…きっと』
『いやいや!失礼な!てか何また変なこと言ってんの!大丈夫に決まって…あいたあ!』
さやかが悲鳴をあげた。ほむらがさやかの腕に顔を押し付けて、噛みついたのだ。
『いった…、あんた何すんのよ!』
相方の奇行に驚きながらも、涙目のさやかが抗議するが、顔を離したほむらが口を尖らせて応戦する。
『貴方が人の気も知らない鈍感だからよ…』
『そんなこと言われても…ちょ、ちょっと?』
ほむらが急に、さやかの背中に両手を置いて、力を入れる。不思議そうにしながらも力に抵抗せず、さやかはカウンターに前のめりになった。さやかの背中に温かいものがあたる。
『気持いい…』
ほむらがさやかの背中に顔を押し付けて目を瞑る。
『枕か!』
酔いが回ってやりたい放題な相方に辟易しながらも、それでも彼女に頭があがらないさやかは文字通り、そのまま前のめりになって、両手を枕にした。ちょうど、学校の休み時間に机で眠る体勢だ。しばらくすると規則的な相方の寝息が聞こえきた。
『まったくもう…』
相方の温かい息を背中に感じながら、さやかは苦笑する。どうにもさやかは彼女に弱く強く出ることができない。それには色々理由があるが、とにもかくにもいつも自分を押し殺しているこの黒髪の友人が、素直になることはさやかにとっても嬉しいことであった。そのままさやかも目を瞑ってしまう。
――さやかちゃん、ほむらちゃん?
それからまどかに声をかけられるまで、二人はカウンターで寝入ってしまったのだ。
* * *
「いやあ…さっきはびっくりしたわ…」
照れたようにさやかは頭を掻きながら苦笑いする。そんなさやかにまどかも笑って。
「私も驚いたよ?だって二人ともカウンターで酔いつぶれているんだもの」
「いや、面目ない」
右手を前にかざし、おじぎをするさやか。まるでお侍のようだ。思わずまどかはまた笑ってしまった。二人がこの居酒屋にいた理由は既にさやかからまどかは聞いている。その時もまどかはただ優しく笑って、「しょうがないなあ」とさも嬉しそうに目を細めたのだ。
「でもほむらちゃんは大丈夫?顔、真っ赤だよ?」
まどかがさやかにもたれかかっている黒髪の女性を覗き込む。何故か黒髪の女性――ほむらは照れたように、さやかの身体に隠れ、そうして顔だけまどかに向けて囁いた。
「…大丈夫よ、私は…まどかが無事なら全然平気よ」
「もう、過保護だなあ、ほむらちゃんは」
いひひ、と子供のように無邪気に笑うまどかに、ほむらは熱い視線を送る。
そんなに熱い視線を送るくらいなら隣に座ればいいのに、とさやかはそう思うのだが、さきほどから当の本人は照れてしまって、一番端の席に座っている。まどかのことになると彼女は、まるで思春期の純情な少女のようになるのだ。
「本当、こいつまどかのことになるとめちゃくちゃ甘くてさあ…あいたっ!」
ほむらに脇をつねられ、さやかは声をあげる。顔をしかめながら、さやかがほむらを睨みつけると、逆に睨み返された。射るような視線のアメジストの瞳。さやかにしか聞こえないような小さな声でほむらが囁く。
「余計なこと言ったら殺すわよ…」
――何よ、この違い!
さやかは思わず心で叫んだ。
「あ、すみません、おかわりお願いします」
「はいよ!いやあ、嬢ちゃんなかなか強いねえ」
その横で、まどかがグラスを手に持ち、板前さんに声をかけている。並々とグラスに日本酒が注がれていくのを嬉しそうに眺めるまどかを見て、さやかが驚いたように声をあげた。
「まどか…あんたってお酒強いわねえ、それ、四杯目じゃない?」
「そうだっけ、えへへ、日本酒好きだから…美味しくて特に気にしてなかったかなあ」
のんびりと微笑んで、まどかはグラスを口にする。顔色も変わっていない。確か彼女はコンパでも飲んでいたはずだ。ふと、さやかは気になってまどかに質問する。
「ねえ、まどか…コンパの時はどれくらい飲んだの?」
「う~んと、覚えてないなあ、確かN大の男の子にいろいろ勧められたんだけど」
「…許せないわ、まどかにお酒を勧めるなんて…人間共」
「ちょ、あんたの怒りは広すぎよ!」
まどかは笑いながら答える。
「あはは、でも結局全部飲んじゃって、逆に男の子達が酔っぱらっちゃったみたいだけどね、えへへ」
まるで天使のように微笑む幼馴染を見つめながら、さやかはこの子は「ザル」なんだとようやく理解した。かなりの量の酒を摂取しているにも関わらず、顔色も変わっていない。しかも酔った時の浮遊感はあるのだろうが、意識もしっかりしている。かたや…右にいる悪魔はほんの2、3杯で顔を赤くし、自分の身を支えられないのか、さやかにもたれかかってきては、時折フフフ、と妙に艶のある笑い声を洩らしたりしている。酒に強い女神と壊滅的に酒に弱い悪魔。そして中庸の鞄持ちである天使。
「なんだか、対照的だわ…」
「え?」
「あ、いやなんでもない。それより、この店って、まどかのチョイス?」
「あ、わかった?えへへ」
さも嬉しそうに微笑むと、まどかはこの、昭和の香り漂う渋い居酒屋の良さについて語りだした。店内の徹底した昭和の「和」の雰囲気と、演歌のBGMしか流れない店内、そして茶碗が渋くて素敵なこと…とても楽しそうに喋る彼女を見るのは、さやかにとっても、もちろんほむらにとっても幸せなもので、三人は夢心地なこの幸せな時間を談笑で過ごしはじめた。
* * *
「…私はね、アクチニウムが好きなのよ」
うっとりとした表情で、グラスを持ちながら、ほむらが気持良さそうに喋る。その目は伏し目がちで、目の前に置かれた刺し身を見つめていた。彼女はもう…随分と酔っていた。
「何よ、それ…食べ物?」
さやかも随分といい感じで酔いが回っているが、まだ朦朧としている訳でもなく、ほどよく上機嫌になって、へらへらと周囲に笑みを振りまいている。その軽薄さ加減が気にくわなかったのか、それとも質問が気に入らなかったのか、ほむらはじろりとさやかを睨むと、左手を挙げた。ふらふらと危い軌道でその白い手が孤を描く。
ぱちん
おそらくいつもの通り、さやかの額を叩こうとしたのだろうが、狙いを外して顔面にヒットした。顔を抑えるさやか。
「いったあ…あんたスナップ効きすぎよ!花火が散ったわ」
「あら…珍しく外れたわね、フフフ」
「フフフって!」
その横でまどかも笑う。
「さやかちゃん、それ言うなら火花だよ」
「あっ、そうか…」
「フフフ…ほんと馬鹿ねえ」
そうして三人は笑いだす。今のこの上機嫌な状態なら、彼女達は箸が転げても笑うようだ。
「あ、ねえ、ほむらちゃん、アクチニウムってなあに?」
「元素記号よ、番号89で…」
まるで人のように、ほむらは元素記号を嬉しそうに語る。彼女は化学を専攻していた。
意外と学問に打ち込んでいるのだと、さやかは内心驚くと同時に、黒髪の女性は酔うとマニアックな性質が出てくるのだと気付いた。
「へえ、ほむらちゃんって…意外とマニアックなんだね」
天然なまどかが無邪気に微妙なことを口にする。するとほむらは嬉しそうに微笑んだ。照れているのだろう、黒髪を梳きながら、伏し目がちになりながら囁く。
「フフフ…まどかにそう言われると照れるわね」
「いや、あんたそれ褒めてないからさ…」
「黙りなさい」
今度はほむらの左手がさやかの頭にヒットした。笑いだすほむらとまどか。と、まどかがほむらのグラスが空なことに気付く。
「あ、ほむらちゃん、グラス空だよ、もっと飲む?」
「あ、まどか、ほむらもうやばそうだから水で…」
「大丈夫よ…まだまだいけるわ」
真剣な表情でまどかを見つめるほむら。心配そうなさやか。
「ちょっと、あんた酒弱いのに…」
「だめよ、まどかが日本酒を飲むなら、私も飲み続けるわ…」
「いやいや、そんな使命みたいに!」
まるで重要な使命のように、悲壮な表情でグラスを持つ黒髪の美女を見て、なんだか滑稽なような切ないような複雑な気分になるさやか。
「無理しちゃだめだよ、ほむらちゃん?…あ」
と、まどかが何かに気付いたように天井の方を見上げる。不思議そうに見つめるさやか。
「どしたのまどか?」
「うん…あ、これ、この曲…うわあ懐かしい」
目を輝かせるまどかに気付いたのか、板前が嬉しそうに声をかけた。
「お、嬢ちゃんもしかしてこの曲知ってるのかい?嬉しいねえ」
「はい!この曲大好きなんです!」
どんなジャンルであれ、人は思い出深い曲と思わぬところで再会できると嬉しいものらしい。まるで人と人との出会いのように。まどかはまるで懐かしい人に再会できたように、うっとりと目を瞑り曲に聞き入った。さやかとほむらもつられて一緒に聞き入る。女性が愛しい男と、貧困を乗り越え、夫婦(めおと)になって共に生きていこうとする力強い歌だ。途中、極寒の地の表現が入ってくる。昭和のコテコテだがストレートな表現の盛り上がりを見せるメロディと、拳の聞いた女性の声がこれまたそこらへんのロックよりも力強く逞しいとさやかは思った。ほむらはこくこくと頭を動かしている、聞いているのかそれとも眠たいのかわからないような相槌だ。
「しっかし、まどかも渋いわねえ…」
人間の趣向というのは不思議なものだ、とさやかは思った。
「えへへ…あ、ここ、このフレーズがいいんだよ」
そう言って、まどかが左手をおろしながら、ぐっと力を入れた。演歌歌手がよくやるいわゆる「拳を効かせる」という奴だ。さやかは幼馴染の無邪気さに微笑んだ。そして、ふと、おとなしい隣が気になり、黒髪の女性を見やると、何やら右手を上下に動かしていた。「じゃんけん」でもするのだろうかとさやかは思い、つい咄嗟にチョキを出すとあきれたように彼女は囁いた。
「…何しているの美樹さやか?」
「へ、何ってあんたじゃんけんしようとしてたんじゃないの?」
「違うわよ…まどかの真似をしようとしていただけよ」
「嘘!」
どうやら彼女なりの「拳の効かせ方」らしい。
「ふふふ、さやかちゃん、拳の効かせ方は人それぞれだからいいんだよ」
「そう?そうだろうけど」
まあ、楽しそうだしいいか、とさやかは未だに「じゃんけん」をしているかのような動きをしている相方を見つめた。
* *
それから三人は結局店の閉店時間まで飲み続けた。
「いやあ、もう随分遅くなったねえ、まどか大丈夫?ここで?」
「うん、大丈夫、ほら家は目の前だから」
タクシーから降りながら、まどがが家を指差して微笑む。まったく酔っていない(ように見える)彼女を見てさやかは内心驚いていた。別の意味でかつて大いなる概念だった彼女に対し畏怖の念を覚える。
「ねえ、まどかあんたいつの間にあんなにお酒強くなったの?」
「へ?ふふふ、変なさやかちゃん、私はそんなに強くないよ?」
「またまた、あんなにまどかがザル…あいた」
ぱちん、とさやかは額を叩かれた。驚いた顔で見上げるさやか。黒髪の相方以外にこんな風に叩かれたことはないのだ。そこにはとても大人びた表情で微笑んでいる幼馴染がいた。
「だめだよさやかちゃん、女の子に「ザル」って言っちゃ?」
「ああ、ごめんつい…」
しどろもどろになるさやかにまた微笑むと、まどかは隣で寝込んでしまっているほむらを優しく見つめる。
「ほむらちゃん、飲みすぎちゃったから起きないね…また一緒に飲もうって伝えててくれる?」
「もちろん、伝えておくわ」
「うん、それじゃあまたね」
そうして二人はまどかと別れ帰路についた。
* * *
「ほら、ほむら家に着いたよ…」
「ん…」
飲みすぎたからか、ほむらは一向に起きようとしない。さやかは自分の首に腕を絡めて目を瞑ったままの相方を見て口元を緩めた。タクシーから降りて、さやかはほむらをおぶって部屋まで辿りついたのだ。ゆっくりと相方の身体をずらし、ベッドへと下ろす。もうそのまま眠らせた方がいいだろうと、さやかは判断したのか、そのままほむらにシーツを掛けようとした。と、ほむらがうっすらと目を開ける。
「…ここどこ?」
「家よ、あんたの」
「そう…」
しばらく二人は見つめ合う。そうして、ほむらは白い手を伸ばす。さやかの首に腕を絡めると、そのまま引き寄せた。
「違うわ…」
「へ?」
「私と貴方の家よ」
「ああ…」
嬉しそうにさやかは微笑むと、そのままほむらの胸に顔を押し付けた。ほむらは目を瞑り、囁く。
「楽しかったわ…とても」
「そうだね…」
そうしてさやかも目を瞑る。ほむらの腰に手を回しながら。
「ねえ…」
ほむらが甘えるように囁いた。
「何?」
「……続き…しましょう?」
「……うん」
それが「何」の続きで、いつの「続き」なのかはお互いに言わなくてもわかっていた。二人は申し合せたように片方の手を絡め合い、強く握る。そうして、ゆっくりと身体を重ねていった――
*********
さやかが目を覚ました時はすでに日は高く昇っていた。窓から差し込む陽光がまぶしい。
「ん…」
さやかがベッドの中で身じろぎすると、すぐ横でほむらが携帯をいじっていた。キャミソール姿のままでベッドにもたれて体育座りをしている。白い肌が眩しい。目を細めながら、さやかはほむらの腰のあたりを軽く叩く。ようやく気付いたのか、ほむらがイヤホンを耳から外しながら囁いた。
「あら、お目覚め…?」
「うん…」
だが、まだ起きる気はないらしい、そのままほむらの横で寝転んだまま、さやかはまた目を瞑る。白い手が伸びて、さやかの蒼い髪を撫でる。その指の動きは彼女の髪の感触を楽しんでいるかのようだ。手の主は何やら真剣な表情で携帯の音楽に聞き入っている。気持良さそうに目を細めながら、さやかは呟いた。
「…何聴いてるの?」
「聴きたい?」
そう言うと、微笑みながら黒髪の美女は片方のイヤホンを外し、蒼い髪の女性の耳へと入れた。その行為に既視感を覚えながら、さやかも音楽に聞き入る。
力強い拳のはいった女性の声、盛り上がる音楽。
「……これって昨日の?」
「ええそうよ」
嬉しそうにほむらは微笑んだ。よほど楽しかったのだろう、昨日あんなに飲んだというのに、ダメージは残っていないようだ。むしろ生き生きとしているといっていいくらいの相方に、さやかも笑顔を浮かべる。
こういう日がこれからもたくさんあって欲しい――
美貌の相方は無邪気に手を上下させていた。
まるでじゃんけんをするかのように――。
END