悪魔の朝は遅い
日もだいぶ高くあがった頃、マンション最上階の広いベッドで睡眠を貪っていた家主は、ようやくその中でもぞもぞと動き出した。白いシーツの膨らみから、家主の頭と細い白い腕が現れる。
「ん…」
艶のある声を漏らしながら、むくり、と上半身を起こす。顔を隠すほど乱れた長い黒髪が、胸元にかかって。不機嫌そうに息を吐きながら、家主が優雅な仕草で髪を掻きわけると、これまた恐ろしいほど美しい顔が現れた。2、3度髪を梳いてからゆっくりとベッドから降りる。薄い白のキャミソールを一枚纏った肢体が陽光に照らされ、得も言われぬ色香を醸し出している。だが、幸か不幸かそれを見て顔を赤くする相方は今は仕事で不在だった。
「……」
まだ寝ぼけが取れていないのだろう、のろのろとふらつく足取りで彼女は窓辺のテーブルへ向かう。椅子に座ると気だるげに頬杖をついた。と、その視線がテーブルに注がれ、彼女――暁美ほむらの口元が綻ぶ。
――そこには可愛らしいラッピングが施された小箱
『いや…その来週でちょうどあんたと暮らしはじめて9年目でしょ?』
ベッドの下に相方が隠してあった「記念日」用の贈り物。本当にいつまで経っても少女趣味の持主だ、とほむらは思う。そうして脳裏に蒼い髪の相方のお間抜けな顔を思い浮かべ、これまた可笑しくてたまらないという様に微笑んだ。長い間一緒に生活を共にすると、拾ってきた犬にも情が湧くのだろう、飼い主の方は、もうだいぶほだされているようだが。箱を持ち上げると、細い指で愛しげに何度も箱を撫でた。「中味」を想像して、黒髪の美女は目を瞑る。まるで触覚だけで中味を探しあてるような、そんな指先の動き――と、携帯の着信音が軽やかに鳴った。
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当直明けの日というのは、意味もなく気分が高揚するものらしい。美樹さやかもご多分にもれず、何やら歌を口ずさみながら警察本部を後にした。だいぶやっかいな案件もまだ残っているが、「とりあえず帰れる時は帰る」と決めていた。これは元上司の初老の男の口癖でもあるのだが。まだ太陽も真上にある、久々の明るい時間の退庁だ。
「さてと、家に帰りますか…」
そう呟いて、ひとり嬉しそうにへらへらと笑う。どうにも妙齢の女性らしからぬ仕草が彼女には多かった。だがおそらくそこが彼女の魅力なのだろう。少なくとも「二人」そう思っている者もいる。野暮ったい黒のスーツの襟を正しながら、さやかはスーツの内ポケットに手を入れ携帯を出した。特に相方からの着信は無く、その代わり見覚えのある少年の名前の着信履歴が残っていた。
――「鹿目タツヤ」
ちょうど一時間前ほどに掛けてきたらしい。どうにもここ最近は頻繁にかかってくるな、と思いながらさやかは携帯を掛け直した。すぐに相手が出てきた。相当急いでいたらしい。
「あ、タツヤ君どうし…」
『さやか!ねえ、助けて、お願いがあるんだ』
何かに追われているかのような切羽詰まった少年の声に、さやかもさすがに驚く。
「どうしたの、大丈夫?何か事件に巻き込まれたの?」
『姉ちゃんが…』
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『タツヤ君の部屋を捜索する?』
「う、うん…へ、変かな?そこまでするって…」
鹿目まどかは、携帯の向こう側にいる黒髪の友人に、弱云しい声で言葉を続けた。数日前から弟の事で悩みを相談しているのだが、思い切って実力行使に出ることにしたのだ。
『そんなことないわ、まどか、あなたは正しいことをしているのよ。私は応援しているわ』
携帯の向こうから艶のある声がまどかを応援する。いつもそう、黒髪の美貌の友人はいつもまどかの味方をしてくれる。それがとても心強かった。
「ありがとう、ほむらちゃん…」
『エロ本を見つけ出して、ケダモノ達の心を正すのでしょう?素敵だわ』
「ケダモノって…」
黒髪の友人は、浮世離れしている故か、時折ずれた発言をしてくる。まどかは困った様な表情を浮かべて。
「いや、タツヤはケダモノじゃないよ?それに達…って?」
達って、誰のことを指しているのだろう…?
だが、黒髪の友人はまどかを元気づけるためだろう、まどかの質問には答えず、何やら励ましの言葉を述べた。まどかにそんな思いをさせる本はこの世から全部抹消するとか、タツヤ君は一生辞書だけ読んでいればいいとか、とにかくどれもずれまくっていて。でも、それも全て自分を元気づけるための言葉だとまどかは知っていて、再び感謝の言葉を述べ笑みを浮かべた。友人の回答がずれまくっているが故に、まどかの心はむしろ楽になったらしい。
「あのね、ほむらちゃん、前にも言ったよね、タツヤがあんな本を読んでいたのが驚いたって…」
『ええ』
「男の子があんな本を読むっていうのは、わかっているんだけど…でもまともに読むのは初めてで、それをタツヤが読んでいるっていうのがなんだか受け入れられなくて」
『よっぽどショックだったのね、まどか…可哀想に』
「うん…きっと、タツヤは私の中ではまだ小さいままのタツヤで、大きくなってないんだろうなって…」
だから向き合うために彼女は弟にきちんと話しをしたのだという。ベッドの下から本を見つけたことも、だが問題はそこからで。
「でもタツヤはそんな本持ってないって、言い張るの…」
『嘘をついているのね…見え透いていても身を守ろうとするとそういう嘘をつくものよ』
「…そうなの?」
『そういうものよ、あの人もそうだもの』
「さやかちゃんも?…ほむらちゃんに嘘をつくの?」
『しょっちゅうね、タツヤ君よりひどいわよ、多い上にバレバレで、聞いている私の方が恥ずかしくなるくらい』
その軽妙な語りにまどかは吹き出した。――さやかの事を語る時は、生き生きと楽しそうに喋っているということを、彼女は気付いているのだろうか?
「そうなんだ…そういう時って、ほむらちゃん、さやかちゃんをどうするの?」
『そうねえ…床に這つくばせるか、あるいはお風呂に沈めるわ』
「嘘!」
普段おっとりしているまどかも、さすがに目を丸くし声をあげる。
「いや…冗談だよね?ほむらちゃん…それはさすがに」
『?いいえ、私は冗談なんて言わないわよ』
「そ…そう」
――傷害罪とかにならないだろうか?
まどかは蒼い髪の友人が不憫になった。
『大丈夫よまどか、あの人はそのくらいしないと反省しないんだから…ところでまどか』
「う、うん?」
『嘘をつかれたら、それを叱るのが身内の努めだと思うわ』
「……身内」
『ええ、誰かが叱ってやらないと、その人はずっと嘘をつき続けるわよ』
「……そうだね」
そうしてまどかは口元を緩めた。気が楽になったというのもあるが、黒髪の友人の言葉であることに気付いたのだ。
「フフフ…でもそれじゃあ、さやかちゃんはほむらちゃんにとっては身内なんだね?」
『………』
おそらく無自覚だったのだろう、まどかに指摘されてから携帯の向こう側から声がしなくなった。恐ろしいほどの美貌の持ち主が頬を染めているのを想像してまどかは目を細めふんわりと笑う。
「図星?」
『………いえ……全然違うわ』
ガタリ、と携帯の向こう側で音がした。相当動揺しているらしい。素直じゃないところは中学の頃から変わらないな、と思う。もちろんあの頃のほむらはどこか近寄りがたい感じがしたもので、まどかもそこまで彼女の内面を見つめていた訳では無かったが。
――今なら解る
そう、あれから10年経って、今なら不思議となんでも理解できる気がした。彼女と、そして蒼い髪の女性が何故しばらくの間まどかと距離を置いていたか、理由はわからないが、心の奥で納得している自分がいる。それに――
『まどかは私の嫁になるのだ――!』
無邪気に笑う蒼い髪の少女。さらさらと流れる髪に、空の様な瞳。何故かずっと前から彼女を知っていた様な記憶。傍にいるのが自然でまるで元々はひとつだったかのように。まどかは彼女の事が好きなのだ。当たり前の様に。そして――
『あなたは欲望よりも秩序を大切にしている?』
美しい黒髪の少女。近寄りがたく、でもどこか惹きつけられる謎めいた子。最初は怖くてたまらなかった。そして何故いつも視線が注がれているのかわからなかった。だが、今わかるのは、彼女がまどかを「想って」いてくれていること。
蒼い髪の少女と黒髪の少女は一緒に暮らしはじめ、成長し大人になった今も生活を共にしている。二人が一緒にいることが、まどかは何故か嬉しくて――ああ、私は二人とも好きなんだ、とそう思った。
『……まどか?』
「あ、ごめんほむらちゃん、ぼーっとしちゃって」
いつの間にか思考の波を漂っていたらしい、まどかは長く伸びた桃色の髪を無意識に梳きながら言葉を続けた。
「ありがとう…ほむらちゃん、なんだか気が楽になっちゃった」
『そう、それなら良かったわ』
それから二言、三言話して、まどかは携帯を切った。そうして学習机に桃色の携帯を置くと、「よし」と元気づけるように声を出し、トレーナーの袖をまくる。
弟のエロ本を探し出すために。
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美樹さやかは呆れたような表情を浮かべた。
「まったく、タツヤ君てば、やっぱエロ本持ってたんじゃん!私に言わないなんて水くさいんだから」
少し怒った様な口調だが、その表情は優しい、いつもの様にへらへらと笑みを浮かべている。どうやら携帯の向こうの少年をからかっている様だ。
『ごめん…言いにくくて』
「まあ、確かに言いにくいけどさ…それで、まどかが見せろって?」
『ううん、俺、持ってないって言った』
「なんで!ダメよそこは嘘ついちゃ」
さすがにさやかも驚く。幼馴染の弟であるこの少年は素直でいい子のはずなのだから。
『悪いってわかってる…でもさ』
「でも?」
『姉ちゃんにあんな本見て欲しくない……』
「ああ…」
それはさやかもわかる気がした。職業上、彼女は性的犯罪に関わるあらゆるものを見てきているが、時折、もしこれを純真無垢な子供(例えばまどかの様な)が目撃したら、と想像してゾッとすることがある。さやかは眉を下げてため息をついた。
「タツヤ君も大変ね…」
そうなのだ、少年にとっては自然なことなのだから、責めることはできない。しかしその所為で姉が苦しむのを想像して、己を責める少年というのはまたさやかにとっても見ていて心苦しいものだ。
「で、今はどこにいるの?エロ本持って逃走中なの?」
『うん、家にあると見つかるからさ、とりあえず持ちだしたんだ』
あてもなくエロ本を持って彷徨う少年というのは滑稽でもあり、哀しくも有り。
「あちゃあ…そっか、どうにかできないかしらね」
『ねえ、さやか』
「ん?」
『俺、姉ちゃんに謝りたいんだけどさ、本は見られたくないんだ』
「そうだよね…」
『さやかは…』
「ん、何?」
『女の人の裸とか見たらどう思う?』
ぐは、と変な声をあげながら、さやかが咳き込んだ。往来に人は少ないとはいえ、いきなり横断歩道で咳き込む女性を数人が不審げに見つめた。周囲に気付き、さやかが小声で携帯に向かって叫ぶ。
「な、な…何言ってんのよ!」
信号が青になる。歩きだす人々。さやかもそこに紛れて歩き出す。
『いや…男が女の人の裸みたら興奮するっていうじゃん?女同士だったらどうなのかなって、もし…もしあの本見たら姉ちゃんどう思うかなって』
「そ、それは…」
瞬時に脳裏に黒髪の女性が浮かんだ。心の中で悲鳴をあげながらさやかは頭を振る。
――場合、場合による!今は興奮している場合じゃない!
『さやか?』
「な、なんでもないわ…ま、まあ時と場合に寄るけど…」
深呼吸をして、また携帯の向こう側の少年に言葉を続ける。
「私は仕事でそういうものをたくさん見ているから、あまりなんとも思わないわね…」
『…うわ、かっけえ』
少年が感嘆の声をあげるのを聞いて、さやかの心が少しだけ痛む。嘘はついていないが、見て興奮する相手は存在するのだ。
「でもまどかはあんまりというか、全然そういうのに免疫無いはずだから危険だわ」
『だよなあ…』
「どっか隠せないの?」
『無理、姉ちゃん、探すって言いだしたらもう聞かないから、家の中全部探すよ…』
「そっか…」
さやかは歩を止めた。次の交差点を越えたらマンションに着く。右へ数キロメートル行けば、いつもの公園。まどかの家にも近い。さやかは肩をすくめ、少年に話しかけた。
「ねえ、タツヤ君、今どこにいるの?」
『うん、今家の近くを歩いてるけど?どうして?』
「いい考えが浮かんだのよ」
さやかは飄々とした表情で笑みを浮かべた。
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――帰りが遅い
ほむらはテーブルに細い指を立てて、コツコツと音を立てる。最初はリズム良く叩いていたが、次第に激しくなる。どうやらかなり苛立っている様子で。相方のスケジュールをほむらは全て記憶している。今日は当直明けで、業務は0830まで、しかし大抵は残務処理で退庁するのは1140頃、そして家に到着するのは平均して1310頃……ギロリ、とほむらは携帯の時刻表示を睨む。
1500
約2時間帰宅時間が遅い。
ほむらの脳裏で相方は蒼い犬に変換され、街中をへっ、へっ、と愛想良く走り回る。時には優しい老人に餌を振る舞われ、時には女子高生達に頭を撫でられ。
――ギリ、
ほむらの奥歯が鳴った。
「躾なきゃね…」
ドスのある低い声で呟いた。
ほんの少しだけ、悪魔は思いこみが激しいらしい。
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本が見つからない――
まどかは弟のベッドの下を覗きながらため息をついた。そうしてゆっくり体を起こす。両手を腰にあて、ほんの少し途方に暮れた様な表情をしながら。長い桃色の髪を後ろに無造作に束ね、トレーナーにジーパンのラフな格好をした彼女は実年齢よりもかなり幼く見えた。あどけないが、愛らしいその容貌は悪魔いわく、「中学の頃から全く変わっていない」。
「…タツヤったら、一体どこに隠したんだろう?」
ストライプの模様の入ったベッドの布団には、野球やサッカーなどのスポーツ雑誌と少年漫画が無造作に置かれ、壁にはロック歌手のポスター、いたって普通の男の子の部屋だ。初めてこの部屋であの本を見た時の衝撃をまどかは忘れることができない。表紙を思い出し、まどかは頬を紅潮させ、己の頬を軽く叩く。
「ああ、もう…」
自分は潔癖症なのだろうか?表紙を見ただけで怖くなり、中は見なかった。いい年をして何も知らないという野暮な事は言わないが、どうにもその手の話にまどかは疎かった。そうして、思春期時代にそのことで散々赤毛の友人にからかわれたことを思い出した。男性が苦手という訳ではないが、その様な目で見られたりするといたたまれなくなる。ましてやエロ本だなんて…だが、そうも言ってられない、黒髪の友人の言っていた通り、弟を正さなければ――と、玄関から元気のいい少年の声。弟だ。
ドタドタと廊下を走る音が聞え、すぐに部屋のドアが勢いよく開いた。
「姉ちゃん!」
「わ、タツヤ、どうしたのそんな慌てて…」
だが、姉の言葉も聞かず、少年は勢いよくその場に座ると土下座した。
動揺する姉。
「姉ちゃんごめん!俺、俺さ…」
そう言って、途中で顔をタツヤはあげる。その顔は真剣そのもので、まどかも思わず弟の顔に魅入る。
「俺――」
タツヤは迷いなく言葉を続けた。
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――これでよかったのだ。
ビニール袋を小脇に抱え、さやかは一人心で呟く。公園を出てから10分、もうあと少しで家に着く。さやかは仕事柄あまり大きなバッグを持たない。肩にひっかけられるような小さなリュックをしょいながら、ひょこひょこと軽快に歩いているが、今日は、珍しく荷物を持っていた。それはつい先ほど会った少年のものだったのだが…
『さやかが本を預かる?』
『そうよ、いい考えでしょ?』
つい先ほど公園で交わされた、さやかとタツヤの会話。
『で、でもさやかは大丈夫なの?』
『何言ってんの、2、3日台所の下かどっかに隠してるわよ、それよりタツヤ君は、いますぐ家に帰ってまどかに謝るのよ』
『う、うん…』
『そうして、こう言いなさい「本は友達にあげた」って』
『さやか…』
『嘘は言ってないでしょ?そうしたらまどかに本を見せなくて済むし、次から気を付けたらいいじゃない?』
『それと』
さやかはタツヤの眼前に人さし指をかざす。
『今度はうまく隠すのよ』
ありがとう、そう言って少年は無邪気に笑った。
――ふ、と思いだしてさやかは笑みを浮かべる。そうしてガサガサとビニール袋から表紙をちらりと覗き見ると、また笑った。仕事柄、この手の事に対してはかなりの免疫がついてしまった彼女にとって、表紙の女性の姿はまだまだ可愛らしいレベルのものらしい。
――まだまだ可愛いものよね、中学生の子が買いそうなもんだわ
だが、その後がまずかった、さやかは興味を持ったのか、袋から本を出してぱらりと表紙をめくる。垂れ気味な目が見開かれる。
――コア!
パタ、と本を閉じて慌てて周囲を見渡す。それほど内容はすごいもので。
――タツヤ君てば!
中学生の癖にこんなコアなものを!とさやかは心で叫ぶ。確かさっき友達からもらったと言ってたが、友達の兄あたりのものなのだろう、これは中学生が見るにはマニアックすぎる、ましてやまどかが見たら失神するレベルだ。さやかはまた周囲をきょろきょろと見る。マンションに近づいたこのあたりでエロ本を見ていることに気付かれたら、自分もなんて噂されるかわかったものじゃない。よくて欲求不満か、悪くて痴女だ。
「ああ、まずいわ、早く家に帰って隠さないと…」
だが彼女はわかっていなかった、家の中にこそ恐怖が待っているということに――。
続く